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ホイッグ党(ホイッグとう、Whig Party)は、かつて存在したイギリスの政党。後の自由党及び自由民主党の前身にあたる。 ホイッグ党の起こりはイングランド王チャールズ2世の時代の1678年から1681年にかけての王位継承問題でカトリックであったチャールズ2世の弟ヨーク公ジェームズ(後のジェームズ2世)の即位に反対の立場をとった人達をさして"''Whiggamore''"と言ったのが始まりである。''Whig''はスコットランド方言の「馬を乗り回す」から来ていると見られる。 == 歴史 == === 王位継承問題 === 1660年に清教徒革命後の王政復古を受けて即位したチャールズ2世には嫡子がおらず、次のイングランド王にはチャールズの弟ヨーク公ジェームズが目されていた。しかしジェームズはカトリックであり、国教がイングランド国教会であるプロテスタントのイングランドではカトリックの王を頂くことに対して強い抵抗感があった。この後継問題はイングランド議会においてもジェームズの即位を認めるグループと認めないグループの間で激しい論争となった。ここで賛成派が反対派を指してWhigと呼んだのがホイッグの始まりである。 Whigはスコットランド語の"whiggamor"から来ており、意味は「謀反人」とか「馬泥棒」と言う意味である。一方の反対派は、賛成派を指してTory、アイルランド語で「ならず者」、「盗賊」と言うあだ名を付けた。これがトーリー党の始まりになった。ホイッグ党の事実上の創設者はシャフツベリ伯爵アントニー・アシュリー=クーパーで、トーリー党の前身である宮廷党はチャールズ2世の側近であるダンビー伯トマス・オズボーンが作り上げた。ホイッグ党は議会重視と非国教徒の寛容を掲げ、トーリー党は国王尊重と国教会堅持で寛容を認めなかった。 1678年のカトリック陰謀事件で反カトリックの風潮が漂い、ジェームズはイングランドから出国、ダンビー伯もフランス王ルイ14世との密約が発覚してロンドン塔へ投獄、議会はホイッグ党優位となった。ホイッグ党はこれらを背景にチャールズ2世の庶子モンマス公ジェームズ・スコットの嫡子への格上げで次期国王にすることを目論み、ジェームズから王位継承権を剥奪する王位排除法案を議会で通過させようと試みたが、チャールズ2世とトーリー党の反対を受けて認められなかった。1681年にチャールズ2世は議会を解散すると、ホイッグ党の地盤である地方の治安判事と自治都市を切り崩してトーリー派に交替させたためホイッグ党が不利になり、シャフツベリ伯の亡命とライハウス陰謀事件による指導者層の排除でホイッグ党は衰退した。モンマスも事件との関与を疑われイングランドから亡命(後に反乱を起こし処刑)、ジェームズの即位は認められ、1685年にチャールズ2世亡き後にイングランド王ジェームズ2世として王位についた〔『イギリス史2』P246 - P250、『イギリス革命史』(上)P220 - P253、P262 - P265。〕。 なお、この時点でのホイッグ・トーリーは、綱領を採択して党として一致した政策の実現を目指すという現在のような政党(Party)ではなく、あくまでもジェームズの即位問題にのみ特化されたグループであった。 === 名誉革命 === 先の王位継承問題において、トーリーのようにジェームズに対しての王位継承を認めたグループが存在した理由は、ジェームズもまた嫡子がおらず、カトリックの王もジェームズ1代限りという諦めにも似た妥協が存在したためである。カトリックの王ジェームズ2世はカトリックに対しての保護政策を取り、既にイングランドにおいては時代遅れな絶対王政的態度を取るが、それもジェームズ2世の1代限りと諦めるしかなかった。 しかし1688年、ジェームズ2世の王妃メアリーが王子ジェームズを生むと事態は一変し、次のイングランド王もカトリックの王として即位する恐れからホイッグとトーリーは一致団結してジェームズ2世を排除する行動をとり始めた。オランダからジェームズ2世の娘メアリーと夫であるジェームズ2世の甥のオランダ総督ウィレム3世を招き寄せメアリー2世・ウィリアム3世として即位させ、ジェームズ2世とその家族は抵抗を諦めてフランスに亡命させられた。これが名誉革命である。 名誉革命後の政権はホイッグ党・トーリー党から閣僚が登用されたが、1694年にホイッグ党が議会で多数を占めるとトーリー派の政治家が更迭、代わりにホイッグ党員が補充された。この時に閣僚として登用されたホイッグ党の政治家はジャントーと呼ばれ、チャールズ・モンタギュー、ジョン・サマーズ、トマス・ウォートン、エドワード・ラッセルらが中心となって政権を取り仕切った。 ホイッグ党政権は大同盟戦争で戦費調達の必要性から国債制度とイングランド銀行を創設して戦時体制を整え、合わせて出版の自由化と議会選挙を3年に一度実施する法案を可決させ、貨幣改鋳も行い後の時代に大きな影響を与えた。しかし戦後はトーリー党が政府批判を展開し、ホイッグ党政権からは閣僚が相次いで辞任していったためホイッグ党は弱体化していった。戦争に対する方針も出来上がり、ホイッグ党は大陸政策を推進、トーリー党は反戦派で海上政策を重視していた〔『イギリス史2』P256 - P267、『イギリス革命史』(下)P100 - P110、P198 - P206、P214 - P215、P229 - P235。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ホイッグ党 (イギリス)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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